和尚のブログ

2013-8-18

ー和尚の思いでー 『みいちゃん物語』

 寺にいた一匹の猫が先日、家族に看取られて十二年の生涯を終えました。猫の名前は、みーちゃん。由来は、三毛猫だったからです。
これから、みーちゃんの事を彼女と言わせて頂きます。何故ならメスだからです。彼女の話をする時、もう一匹の猫の話をしなくてはいけません。その猫の名は、もんど。オスです。
 もんどは、額に傷の様な模様がある白・グレーの猫でしたので
「早乙女もんどの助」からこの名を取りました。もんどは捨て猫で、駐車場に置き去りにされていました。私がもんどの啼き声を聞いたもので、駐車場に行くと、彼が私の顔を見るや、走ってきました。それは聖宝寺に私が来た平成二年の五月の事でした。
 寺に来て一ヵ月。一人でいたので、猫を飼うなど考えもしてませんでしたから、彼がついて来ても、私は逃げました。しかし彼は階段を小さい身体で登って来たのです。私は諦めてこれも縁だと思い飼う事にしました。
 勝手口の横や障子に猫窓を作りました。私はまだ大学に残務が有ったので、月に一度は京都に行っていましたが、彼はちゃんと留守番をしていました。でも一匹で留守番するのが寂しかったのでしょう。十月に出掛けて帰って来ると、もんどと同じ位の三毛猫が居るではないですか。
 私は驚きました。どうしたものかと。二匹も飼えるかなと思ったのですが、これも縁だと思い、それから一人と二匹の生活が始まりました。
 初めは残飯をやっていたのですが、留守にする時困るので、猫用のエサを買う様になりました。猫は口が肥えると落とせないといいますが正にその通り、缶詰をやり出すと、私の残飯など目もくれなくなりました。時には猫のエサの方が上等な日も有りました。
 仲のいい二匹は遊ぶのも、寝るのも一緒。冬には私の膝に二匹が上り夕食など食べ終わって立とうとすると、彼等の重みで足が痺れてしまいました。
 寝ている時は私の顔の両側に寝る為、寝息をステレオで聞かされたり、布団の上に乗られて、重さで目が覚めることも有りました。
 そんな生活も一年経った夏、いつもの様に三日程寺を空け、帰って来ると、みーちゃんが寂しそうに迎えてくれました。もんどは、と尋ねると”ミァー”と一言、オス猫は大人になると家を出てしまうとよくいいますが、まさしく、丁度一年経っていなくなりました。
 それから、彼女と私の生活が始まりました。彼女は、もんどと違い、あっさりとしたものでした。エサを食べるとフイッと居なくなり、「みーちゃん」と読んでも気が向かないと返事はしない。もちろん「こっちに来い」と言っても来る筈もなく・・・。
 しかし、夜になると何処からともなく現れるのか、何時の間にか膝の上に居るのです。ネズミの活動が盛んになる春と秋には、毎日のように獲物が捕れたと騒ぎながら帰って来ます。「仕事したよ」と言わんばかりです。私が寝ていると頭の上で散々持て遊んで、バリバリといわせて食べてしまうのです。
 でも、食べない時も有ります。どうもネズミが病気なのでしょう。特にモルモットの野生は病気を持っているのが多いのでしょう、殆ど食べずに置いたまま。いつしかネズミ塚が出来てしまいました。
 彼女の活躍はたいしたもので、私が来た当初は、毎夜天井裏で大運動。たまに、寝ている枕元を走られた事も有ったのが、彼女のお陰で今では見る事も有りません。
 そして、私が結婚。すると布団で寝る事はなくなり、その代わり冬は、ファックス・コピー機の上で、夏は窓際の畳で寝るようになりました。
 子どもが生まれるとこちらも神経質になり、赤ちゃんに悪戯しないかと気を付け、特に赤ちゃんは口元がミルクくさいので舐めたりしない様、赤ちゃんに近付かせませんでした。
 ある日、ベビーベッドで寝ているみーちゃんを妻が見かけ、えらく怒ったそうです。それからは、彼女からは決して近付く事は有りませんでした。次男の時は、私達より彼女の方が良く分かっていたので、遠巻きでしか赤ちゃんを見ていませんでした。
 彼女はここ近年、夏になると調子を崩し病院に行っていました。どうも虫にやられているとの事でした。嫌がるみーちゃんを篭に入れ、検査をして注射をして貰っていました。行き帰りは今にも死なんばかりに騒いでいました。
 今年も又痩せ始め、吐いてばかりいましたので、市販の虫干しを飲ませていましたが、秋になっても太って来ません。それどころかお腹が膨れているので、妻に言われ、十月二十六日に病院に連れて行きました。その時先生に「これは虫では有りませんね、お腹に何か出来てます。脾臓に肉腫が有る様です。この歳では外科療法しても、辛いのでは有りませんか?」と言われました。
 まさしく、癌の宣告です。頭が真っ白になりました。帰りの車の中で、啼く彼女をなだめながら泣きました。今までの事が思い出され。
 妻にこの事を話すと、来年の年賀状には彼女を登場させようと言ってくれました。嬉しかったです。
 そして、二十九日朝、再び吐きました。おかしいなと思って彼女を探すと勝手口で一点を見つめていました。まさしく東の方を、西方浄土の方をれから行く先を見ていたのかと今になって思いました。
 その後、私は彼女の姿を見ることは有りませんでした。その夜ふと思い探しましたが、居ません。私は三十日から高山で御詠歌大会が有り、その手伝いで出る事になりました。妻は何かを感じたのか、高山へ行く事をえらく嫌がりました。その予感は当たりました。
 三十日の午後、携帯電話が鳴りました。その時は取れずに休み時間に電話すると妻が出て、みーちゃんが滝の広場で発見され、連れて帰って来たけれど、もう動く事が出来ずにただ息をしているだけと聞きました。手が震え、涙が止まりませんでした。しかし、御詠歌の発表会中。気を取り直し「毛布を入れた箱に彼女を入れ、皆の近くに置いてやってくれ」と頼みました。
 発表会も終わり、その夜電話すると、涙声の妻。夜七時頃に亡くなったとか。俊昭は泣いているとか。成昭は「ネコしんだよ」と言っています。今夜一晩線香を焚いて、明日埋めてくれと頼みました。妻から「みーちゃんが和尚さんを探すように細い声で啼いていたよ」と聞いた時は、たまりませんでした。
 一人だった私は妻を持ち、二人の子どもに恵まれ家族は増えました。その姿を彼女は見続けていました。そして、ネズミの害から彼女は守ってくれていました。
 今は私は一人では有りませんが、彼女を失った今、その存在の大きさを身を持って感じています。命の無常を感じています。
 裏の銀杏の下に眠る「みーちゃん」そして数年前に敬善寺さんの裏でみつけた「もんど」の亡骸もそこで眠っています。
 命有るものは必ず死んでしまう事は分かっていても、いざそれを目の当たりにした時、寂しいものです。その時人は手を合わせるしかありません。
 そして彼女に「ありがとう」と今、言わせて貰います。
 十二年間の「みーちゃんの物語」は、これで終わります。でも、魂はこれからも永遠に続きます。

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