先日、動物葬儀の依頼の電話がいつものようにありました。
ただ、いつものと違っていたのは喪主さんからの連絡ではありませんでした。喪主さんの仕事仲間だったとか。
その方のお話では、その喪主さんは耳が不自由だという事でした。
「付き添いの人も一緒なので、手話通訳してくれるので、大丈夫ですよ。」とか
どの様に対応しようかと思案しましたが、特別な事も出来ないので、普段通りにしようと思いました。
当日、来られるのを待っていたら、なかなか来られない。
来られるのをボーと釣り堀の池を眺めながら待ってると、春コートを着た女性が一人、階段から上がってこられてイスに坐って一息ついておられるのが見えました。こんな時間に珍しいと思っただけでした。
そして、準備のために本堂に移動したら、そのコートの女性と箱を持ったご夫婦。
お話を聞いたら、電車で来られて、石段を登ってこられたとか。
早速、受付をして、葬儀。
葬儀が終わって何時もお話をしているのですが、今回はどうしようかと考えました。
だって、耳が不自由だとお話が通訳を通しだと、時間が倍かかるし。遅くなるし。
でも、丁度、かえで会の時にボードに「布施行」について書いていたので、それを題材にして話を開始。
奥さん(お母さん)は一生懸命私が書く文字をメモっておられる。
ご主人(お父さん)も若い女性(娘さんだと後で分かる)の手話通訳で理解しようと必死。
若い女性には少し難しかったようですが、お父さんに聞きながら理解してもらいました。
全てが終わって、桑名の自宅まで送る事にしました。
だって、午後8時が過ぎていましたから。電車だと、岡江理奈ったら、午後10時過ぎてしまいますからね。
帰りの車の中で、娘さんに質問をしました。(後になってなんて失礼な質問をしたかと後悔しましたが、後の祭り)
「沈黙の中で、さみしくありませんか?両親と話すとき、音がないから。」
すると、「楽しいですよ。だって、お母さんは一生懸命私の話を手話で聞いてくれるし、お父さんは冗談が好きで、何時も笑わしてくれるから。お父さんは面白い人ですから。」
私は、はっとしました。自分の価値でこのご家族を見ていたと。
(価値観は人の生まれた環境によって違う。
だから、苦しみも違う。)
(苦しみが違うから、お釈迦様はその人に合った教えを私達にくださったのだ。
こんなに沢山お経があるのはそのせいなんだと)
とは言っても、このご家族には私の想像を超えた苦しみがいたままであったのは確かです。
お嬢さんの話の端々にそれは感じました。
ただ、驚いたのはお嬢さんはまだ、高校生だと聞かされたときでした。
みため、二十歳くらいに見えました。振る舞いからも。
お父さんは大工さんだそうで、お家を見たらとても素敵なお家。
お父さんが造られたとか。
この猫さんはこのご家族の心の花園だったのだと改めて感じました。
寺に帰ったら、お嬢さんからメールがあり、読むと、来るときに桑名駅まで自転車で来られていたとか。
乗って帰るの忘れてたと、家族で大笑いしたとか。
猫ちゃんのお陰で素敵なご家族とご縁があった事に感謝。
そして、我が価値観で全てを見てはいけない事を教えて頂き感謝。
新緑が皐月の日差しに輝いています。
まるで、彼女のように
これからも輝いて欲しいと願います。