テレビを見ても、新聞を読んでも騒がしいことばかり。それに飽きたらずに自ら刺激を求めて走り回っている人もたくさんいます。 でも、こんな時だからこそ、心静かにして自分自身を見つめる時ではないでしょうか。
さあ、坐禅をしましょう。
坐禅は体と呼吸と心を調える事です。体と呼吸についてはお話ししてきました。今回から心につい
てお話ししていきます。
心を調えることは、体を調え呼吸を調える事より難しいことです。よく人から「坐禅は無念無想になることですか?」と聞かれます。坐禅をするとすぐに無念無想になれる人がいたら是非紹介して下さい。インスタントになれるものではありません。ではどの様にすればよいのでしょうか。
まず無念無想の意味を考えてみましょう。国語辞典に「余計な事を何も考えない様子」と記されています。「何も考えないこと」というのがポイントになります。
では、「考えない」ということを考えてみましょう。その前に「考える」の意味を国語辞典で調べてみますと「経験や知識を基にして、未知の事柄を解決(予測)しようとして、頭を働かせる」。「考える」というのは「頭を働かせる」ということです。
今こうしていると、皆さんは何が心に浮かんできますか?「暑いな」「腹減ったな」「のどが渇いたな」。いろいろな事柄が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていきます。そして、ある事柄について連想を始めます。「暑いな」「去年もそういえば暑かった」「去年はプールに子どもを連れていったな」「今年はどこへ連れていこうか」「今年はお金がないしな」「ボーナスどうしようか」「定期の利息もゼロに等しいくらいだし」などと考えを巡らしてしまいます。これを「考える」ということです。では「考えない」というのはそういった事をしない、つまり巡らさないということになります。
私達の心にはいろいろな事柄が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていきます。その中でひっかかた事に思いを巡らし悩み苦しんでいくのです。
心を調えるというのは「思いを巡らさない」と理解して下さい。そうすれば分かりやすくなると思います。
心を空っぽにしろといわれても無理な話です。ましてや、「絶対無」であるとか「無我」といわれてもピンと来ないと思います。
まず、心に浮いてくる事柄に対し思いを巡らさずに、ひたすら呼吸の数を数えて下さい。すると、浮かんでくる事柄に思いを巡らすことが面倒くさくなってきます。 そして何時しか、呼吸の数を数える事しかしなくなっている自分に気付きます。
しかし、気付いてしまったと共に、また、思いを巡らしている自分があるのです。
そこであきらめずにまた繰り返して下さい。
心の動きというのはそう簡単なものではありません。心は自分の持ち物でありながら、なかなか自分で操作できないのです。いえいえ、いつもその心に踊らされているのが私達です。
そんな心でも、必ず自分自身のものになります。それが、心を調えることです。
呼吸を数えるという、単純なことを繰り返し、繰り返し、行っていくうちに何時しか、自分が何処にいるのか、どれくらい時間がたったのか分からなくなります。空間と時間を飛ぶという感覚を味わうことでしょう。
これが、「悟り」ということです。ただ、これはあくまでもほんの入り口で、「悟り」については次号でお話ししたいと思います。
私達禅僧は、「悟り」を体得するために一生をかけます。しかし、一生かけても「悟り」を得ることなく、死んでしまう僧の方が多いのです。
皆さんには、そこまでを要求しません。まず、心を調えて心が空っぽになるようになって下さい。
そうなれば、今までと違ったものの見方、感じ方が出来るようになります。
「ゼロ」というのは空っぽ、「空」のことです。
今私達に必要なのは「ゼロ」つまり「空」です。だから、まず自分達の心を空っぽにしてしまわなくてはいけないのです。
今、行く先が見えずに悩んでいる人。さあ、背筋を伸ばして坐ってみましょう。心を空っぽにした時、あなたの行く道が必ず見えてきます。
疑っていても仕方ありません。まず、試してみましょう。
一人ではダメであれば和尚がお手伝いいたします。
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2014-6-11